2002年、大阪での安定したサラリーマン生活に別れを告げて、
突如、鳥取へ大脱走をしてしまいました。選んだ職業は「漁師」!!
冒険家、自然愛好家を自称しているつもりなのですが、
一般的には「世間知らずの無謀なおバカさん」と言うみたいです。2年半の漁師見習い後、念願の漁船「弁慶丸」を手に入れ独立。しかし、漁業だけで生計を立てるのは至難の業。漁師直送の通販事業で起死回生を図るも、いまだに「奥さん」と「船酔い」には、どうしても勝つ事が出来ません。そんな弁慶丸が漁師になるまでの回想録です。
未来予想図
その1 何故、漁師になったのか・・・って尋ねられても
私としては「海が好きだから漁師になりました」というのが最もシンプルな説明だと思っているのですが、周りの方々からは「そんな子供じみた夢物語を・・・」といくら説明してもなかなか理解して頂けませんでした。
サラリーマン時代は、休日になると気の合う仲間とよく和歌山や京都の海に遊びに出かけました。スキンダイビング(素潜り)や青空の下で風に吹かれながらのバーベキューは、営業で貯まったストレスをきれいに吹き飛ばしてくれました。
元野球部仲間で鳥取砂丘へ まさか移住する事になるなんて・・・
私にとって海は天然の医療機関だったのです。「自然の中でもっと自分らしく活躍できる仕事が、いつかできればいいなぁ~」と戯言を言っていたのがそもそもの始まりでした。 もちろん「漁師」なんていう職業は、頭の中には全くありませんでした。ましてや、漁師という特殊な仕事が思いつきでできる仕事だとも思っていませんでした。ただ黙々と契約獲得に奮闘する営業マンとして慌しい日々を送っていたのです。
そんなある日、インターネットを見ていたら、あるキャッチフレーズが眼に飛び込んできました。「漁師になりませんか?」 このストレートな問いかけに、心を打ち抜かれてしまいました。 そのサイトが、弁慶丸誕生のきっかけとなったのです。
風情のある港の風景は時間が止まったかのよう
その2 よし、鳥取にいこう!
1、漁師の世界に他人は無用?
そのサイトの中に、「漁業体験」というコーナーがありました。 鳥取県主催の4泊5日「チャレンジ沿岸漁業体験インとっとり」の募集広告は、いとも簡単に私を宙に舞い挙げてしまったのです。
なんとか仕事のスケジュールを調整し、案内日程より1日少ない、3泊4日で参加させて頂きました。この漁業体験を通じて体感した「漁業」という仕事のおもしろさ、楽しさは、「漁師」という職業を本気で考えるきっかけとなったのです。
鳥取県の漁業者育成制度は、海上での実体験研修から新規着業するための船の助成制度まで、体制がきっちりと整っていました。また、体験地である鳥取市の賀露(かろ)町は、昔ながらの風情のある漁師町でありながら市街地からも近く、隣町には鳥取大学があるということで、勝手にイメージしていた田舎特有の不便さを全く感じることなくすごく気に入ってしまいました。
この漁業体験後、関西近圏にも同様の制度が無いか探してみましたが、「組合員資格取得に1,000万円ほど出資して下さい!」 「世襲制度のようなものだからよそから来られる人はねぇ~」などとほとんどが門前払いの状態でした。
そうなると、結局・・・「鳥取しかない!」ということになった訳です。
2、家族は、そりゃ~もう・・・
当然のことながら家族や親戚は大騒ぎ!! 「漁師になりたい」と訴え続けるも
「いったい、なんの為に高いお金を支払って大学まで出したんや!」と猛反対。 友人たちも「ついに狂ったか?」と呆れるばかりでした。中には「お前らしい考えや!自然相手に暴れてこいや!」と応援してくれる声もありましたが、そんなに簡単に理解される訳がありません。
中でも一番の難関は、当時お付き合いしていた今の奥さんでした。 「俺、漁師になる為の研修を鳥取で受けようと思ってんねんけど、一緒に来るか?」の問いかけに対して、眉間にシワを寄せながら「はぁ~なんの為に?」のキツ~イ一言で、その場は敢えなく「撤収」と相成りました。なんと自分でも迂闊というか不用意だったわけですが、練りに練ったプロポーズの言葉が実はこれだったのです。
「住めば都」の賀露の街並み アップダウンの坂が多いのが港町
でも落ち込む私に同情してくれたのか、最後はこのワガママな「世間知らずの無謀なおバカさん」に笑顔(?)でついて来てくれたのです。もし、あなたのご主人さんや息子さんがある日、突然、「漁師になりたい!」と言い出したとしたら、どうされます? 弁慶丸が奥さんの立場なら断固、反対します(笑)
3、 漁村の生活って、いったい・・・
「住めば都」、「案ずるより産むが易し」、「郷に入れば郷に従え」と、昔の人はまあ良く言ったものです。
漁村の生活は、私たちの想像をはるかに超えた、全く異次元の世界でした。私は、それなりに覚悟はしていたのですが、奥さんは本当に大変だったと思います。
まずは、警戒心と好奇心の格好の的となり、「大阪から来た変わり者」の24時間監視体制からスタートしました。私の1日の行動スケジュールを、奥さんよりご近所の方のほうがよく把握されていたのには驚きました(笑)。
私達が噛みつかない安全な生き物だと解ると、あっという間に距離が縮まり、嬉しい世話焼き対象の的となりました。家には食べ切れない程の野菜や果物が届いたり、「火曜日はこのスーパー、金曜日はこのスーパーへ買い物にいきんさい(行っといで)」という半強制的な口コミ回覧板。田舎で生きていくためのこと細かい生活術から、あまり興味のないご近所情報まで、怒涛のごとく世話焼きが始まったのです。 これを都会には無い「人とのつながり」と感じるのか、「プライバシーの侵害」だと感じるのかで漁村に対する馴染み方が大きく変わってくると思います。
漁師のおっちゃん達の顔つきは怖いし、方言だけのきつい言葉は、直接心臓をノックされるようなものですから。でも、実際は、皆さん実直で優しい世話好きな人ばかりです。受け入れてもらう側が心を開いて飛び込んで行けば大丈夫!そのことが解れば、もう賀露の住民です。 ある時、見知らぬお婆さんに話しかけられました。
「 あんたが大阪からきんさった(来た)人かいな~ほんにお気の毒になぁ・・・」と手を合わされた時は、そのまま成仏しそうでした(笑)。 「住めば都、案ずるよりは・・・」、昔の人は本当に良く言ったものです。
賀露の港祭り「ホーエンヤ祭り」 昔はケンカ祭りと呼ばれていたそうです。
その3、 いよいよ、大海原へ
1、船酔いはダイエット?
私のキャッチフレーズは、「脱サラ船酔い漁師」
漁師の第一関門は、まさに「船酔い」との戦いであり想像を遥かに超えた超難関だったのです。研修どころではありません。出港から帰港までの約17時間、延々と吐き続けていたのですから。胃にモノが入っている間はまだ良いのですが、それが無くなると黄色い胃液に変わり、最後は血ヘドになっていました。二日酔いも幾度か経験はありますが、そんな 生易しいものではありません。
親方から「吐いてもいいケ~吐いたらなんぞ喰え!」と言われるのですが、船酔い状態で胃にモノを入れる事がどれほど辛い事か。もう泣きながら、パンや果物を押し込んでいました。 仕事を覚えたくても頭も体も動くはずはありません。ゲロまみれの自分が腹立たしくてたまりませんでした。気合を入れる為に何度も自分の頬を平手打ちするのですが、体は完全に私の意志から離れてしまっています。
船酔いのおかげで身のこなしも軽やかに!?
鉛のように体はドンドンと重たくなり、そのうち平手打ちする体力も気力も無くなって、最後は船底で倒れていました。 「32歳にもなって、俺はこんな所で一体何をしているのだろう?」と馬鹿げた疑問が波 と一緒に何度も何度も押し寄せて来ました。ただ、「ゲロと血と悔し涙でボロボロの顔を誰にも見られたくない」という意地だけで耐えた(耐えさせられた)試練でした。しかし、人間の体というものは大したものです。
3ヶ月も経つと少しずつ体が慣れ始め、吐く回数も減り、船酔いしながらも研修ができるようになりました。 おかげさまで、研修開始わずか3ヶ月で体重が13キロ落ちました。世の中には、いろいろなダイエット方法が存在しますが、ちょっと過酷なダイエット方法として、船に乗る事をお勧めいたします。リバウンドしたくても、なかなかできませんし、なにより効果的でした。
2、恐るべし賀露弁・漁師弁
「船酔い」の次に控えていた第二の関門は「言葉」の問題でした。
賀露弁の日常会話さえ何度も聞き直す状態なのに、漁師の専門用語となるともはや解読不可能。指示された事が理解できなくて聞き直すと「モガラれ(怒鳴られるの意味)」、解らないから推測で動くとまた「モガラれ」てしまいます。
漁師の言葉は「大声・早口・辛口」の三拍子が揃ったうえに、会話は常に一方通行が基本なのです。これがまた研修どころではありません。船酔い同様、出港から帰港までの一晩中怒鳴られっぱなしで、必死に見よう見マネで親方の作業の後を追っていました。
網直しがマスターできず、居残り練習をよくやりました。
同期の研修生は、海上自衛隊や海洋大学出身で、皆さんがなんらかの海に縁のある仕事や経験者でしたので、まったくのズブの素人の私がなんと目立つこと!!
「くそぅ~、俺は商学部出身の住宅営業マンだ。漁師にはぴったりの職歴ではないか。」 「なぜ、マルクス資本論やコンサルティングセールス理論には漁師の知識が入っていなかったんだ。」などと、どうでもいい苛立ちと悔しさのつぶやき。同期の研修生とは差が開くばかりでした。なにしろ基本中の基本のロープの結び方から教えてもらうのは、私だけだったのですから。
3、それでもめげない元セールスマン
言葉が通じない、コミュニケーションがとれないという最悪の状態をなんとか打破しよう思いついたのが、セールスマン根性と経験から得た社交術でした。
言葉がわからなくても、とにかく積極的に自分から話しかけて行ったのです。
漁師の世界は派閥社会で、親方が属しているグループ以外の人とは気軽に話しかけられない雰囲気があります。指導して頂いている親方とそのグループの機嫌を損ねない様に、いろんな漁師の人達とコミュニケーションをとっていきました。住宅営業で培った能力が初めて役に立った訳です。
悪口も嫌味も罵声も言葉がわからいから気にならない!?
しかし漁師気質は陸の常識とはまったく異なる独特なもの。まさに異文化交流を体験したのでした。漁師のおっちゃん達の言動にはいくつもの「?マーク」が頭の中に立ち並びました。どこか遠くの名前も聞いたことのない国に「ポツン」と置き去りにされたような感じでした。 奥さん曰く、「あなたも異次元人間みたいなものだから、全然、違和感ないから大丈夫よ」 確かにその言葉通りで、異次元人間に変身するのに、そう時間はかかりませんでした。 そのうち親方グループ以外の人達からもアドバイスを頂ける様になり、「点」でしか理解できていなかった事が「線」となって見えてきました。 「うちの親方はこういう事を教えたかったんだなぁ」と反省ばかり。
しかし、一度コツを掴めば、こう見えても元セールスマン。多少の応用はできるってもんです。何とか2年半に渡る研修を無事終え、ついに独立を迎えることができたのです。
その4、 巣立ちの時
1、親方の悩み ~親の心、子知らず~
私がお世話になった研修制度は、新たに漁師を始めたい人にとって大変恵まれた制度であったと思います。親方たちのご苦労も、(自分のせいではありますが)大変だったと思います。生まれてずっと海の世界で生き、独特の価値観を持ったある意味、世間離れした独立国家の住人のような方々ですから、他人に漁を教え、人を育成する経験も少なかったでしょう。
しかもいきなり右も左もわからない都会の「ド素人研修生」を押し付けられた訳ですから、気の毒というか何というか・・・ 親方にしてみれば生活がかかっている商売上の中で、「ド素人研修生」に仕事を教えなければならないのです。
安全を確保しないといけない、自分の水揚げも揚げないといけない、そして「ド素人研修生」のゲロや弱音にも付き合わなければならない、と踏んだり蹴ったりだったと思います。親方には本当に感謝・感謝です。 大感謝の中で本音も少し付け加えますと、実に不思議な研修でした。なにしろ親方ともめ事を起こしたり、研修制度に不満を感じて辞めていった人が半分以上もいたのですから。
子供と過ごす事が研修時代のストレス解消
今でこそ話ができるのですが、私とて数々の納得のいかない理不尽さに何度大暴れして辞めてしまいそうになった事か。言いたい事も言えず、八つ当たりで親方の船を蹴り上げて(これ、内緒の話です)、何度自分の足を腫れあがらした事か。
親方の「早く一人前の漁師にしてやろう」という想いもわからず、海の上から、親方と大ケンカした事もありました。 自分が独立して、初めて親方の想いに気付く事ができました。親方と私の「必死さ」がうまく噛み合っていなかったんだと反省ばかりです。辞めて行った研修生とは時々連絡をとることがあり、この頃の事を笑い話にして盛り上がっていますが、当時はさすがに笑う余裕はありませんでした。私が研修を辞めずに生き残れたのは、「人」に恵まれたからです。
親身になって相談に乗って下さる鳥取県水産課の職員の方。苦しい時に励ましてくださった他港の若手漁師さん。地元のNPO団体をはじめ、大阪の市民グループの方々とも仲良くなりました。いろいろな方々のおかげで生き残る事ができたと思っております。親方をはじめ、支えて下さったみなさま、改めてこの場を借りてお礼申し上げます。
何より家族の支えがあってからこそ・・・研修時代の家族写真
2、弁慶丸誕生!! しかし、またもやトラブルが・・・
独立と同時に「新船建造」を決意しました。
自分で言うのも恥ずかしいのですが、新米漁師が新船を建造するという事はスゴイ事なのです。鳥取県の研修制度だからこそ成せる技です。
通常は、長年大型船(沖合底曳き船)で勤め上げ、船員年金の受給資格と十分な自己資金をかせいでから大型船を降ります。 その後、小型中古船を購入し、「小漁師(沿岸漁業者)」を始めるのがこれまでの賀露の漁師のパターンでした ですから、いきなり小漁師を、しかも新船でスタートする事はかなりの掟破りでした。
賀露が誇る沖合底曳き船団 沿岸漁業とはまた違う厳しい世界
中古船にするのか新船にするのかですごく悩みました。中古船だと最初の支払いは楽なのですが、数年後に多額のメンテナンス経費が発生してしまうリスクがあります。支払いは大変ですが思い切って「新船建造」に踏み切りました。独立直後にエンジントラブルや機械トラブルに気をとられるより、漁(魚を獲ること)に集中したかったのです。 しかし、この新船建造が、港に暗雲を呼び込んでしまいました。
漁師にはそれぞれひいきの業者(メーカー)があり、義理堅く仁義を通すのが漁師気質なのです。この時代に、新船建造がそんなにあるものではありません。漁師の先輩方は皆さんが自分ひいきの業者に仕事を与えたいのです。しかし、エンジンや機材を2つも付ける訳にはいきません。あっちを立てればこっちが立たずで、親方グループが分裂する程の大事態に発展してしまいました。まさに、「仁義無き戦い」の漁師版の再現で、それはそれは緊迫した恐ろしい日々が続きました。毎日が一触即発で、港から人影が消えてしまいました。
結局、漁協組合に調整に入っていただき、私自身も満足できる業者さんにお任せする事ができました。漁師気質の難しさと義理と人情で成り立つ漁師社会の恐ろしさを改めて実感した出来事でした。
ようやくたどり着いた進水式の晴れ舞台
3、 ジョンレノン気分で
漁師になって一番うれしい事は、サラリーマン時代のあのなんとも表現し難いストレスから解放されたことでした。通勤・ノルマ・残業・会議・休日返上・納期など漁師の世界には存在すらしない。人から指図されず、自分で自由に意思決定ができ、他人や部下のミスに苛立つ事もないし、苛立たせることもありません。失敗も責任も全部自分でとればいいのですから。
時間に追われることが無くなったのは、大きな収穫です。奥さんと4歳になった娘とのゆったりとした時間が流れ、家族と過ごす時間もたくさんとれることができるようになりました。子供が一番かわいい時に子育てに参加できる事も最高の喜びです。冬場の時化時期には、毎日子供と遊んでいます。まるで音楽活動を辞めて主夫になったジョンレノンの気分でしょうか。
子育てには最適の環境です。
子供にとっては、船も遊び場のひとつ
毎日毎食のご飯の美味しいこと。今はおにぎり一つでも美味しく感じます。サラリーマン時代は、朝飯も食べず、晩飯も深夜になることがほとんどでしたし、何を食べても心底旨いと思ったことはありませんでした。食事は機械的な作業のひとつだったかもしれません。 いろいろなストレスが無くなったためか、この歳で身長がまだ伸び続けています。 現在、36歳の184センチ!!まだまだ育ち盛りです(笑)。
「これが本当の人間らしい生活というものだぞ!」と体が教えてくれているみたいです。 自然とともに生きる。いや、生かされるということは実に素晴らしいことです。脱サラして 漁師になって、「かけがえのないもの」を手に入れた気がします。
あなたも都会の暮らしに疲れたのなら、ぜひ、鳥取に遊びに来て下さい。
潮風に吹かれて、海をぼんやり眺めているだけでも人間が考える小さな悩み事なんて、大自然が洗い流してくれますよ。
(この原稿は、起業した36歳当時のものです)